自分の基本方針
理想のためならなんでもやる。
恥も外聞も投げ捨てて思いつく限りのことは全部やってから諦める。
基本的に自分は自分のアイディアこそ最高だと常に思っている。
もちろん人との対話を通じて自分より優れたアイディアだと思えばすぐそちらに乗り換える柔軟性もあるが。
自分の考えを押し通す、それは時として人との軋轢を生むことになる。
だが構わない。常に私の理想とは私のためのものではないのだ。
私の理想とは周囲の人を幸せにすることである。
私がどう思われようが理想がが実現すれば人が幸せになるならそれでいいのだ。
みんな幸せになろう。
俺が連れてってやるぜ!
だから俺の言うことは聞け!俺の言う通りにしてれば全てうまくいく!
怒りとは。
ツイッターで書いたけど。
朝、ふとNHKのニュースを見てたら特集で上手に怒りを伝える方法とか言ってたけど、そもそも人間は怒る必要はないじゃあないか。
怒りは感情。
相手を攻め立てるときは故意にしでかしたことや言論の効果を強めるエッセンスとしてごくまれに使うだけで、
過ちを犯した人間には基本は論理的に過ちを指摘してどうすればいいか言ったり一緒に考えたりすればよい。
人の過ちを正すときに怒りを混ぜるのは小人だ。
感情を入れずにロジカルにやればよい。
相手をビビらせてなにかを引き出すときには芝居で怒鳴ったりはするけど。
そもそも怒りとはなんだろうと考えてみた。
それはコントロールできない理不尽な出来事などに対して湧いてくるものではないかと思った。
だから自分は周囲の人に怒りが湧くことはない。
なぜならやりようによっては必ず接点がある人間はコントロール出来ると信じているから。
できなかったときはやりかたを失敗したときだ。
だから自分はコントロールを失敗したときは相手に怒りはない。自省をするのだ。
しかし勘違いしてはいけない、人をコントロールするということは非常に困難なことだ。容易いことではない。
もし余命宣告を受けたら。
あなたはどう行動するだろう。
例えば半年と言われたらその半年間になにをするのだろうか。
俺は変わらない日常を送るだろう。
なぜなら現状がやりたいことやって幸福に暮らしているからだ。
道半ばにして何も極めること無く逝くことは無念だが何かを極めることは難しい、到達できる人間など限られている。
そこに関しては諦めるしかない。
もしあなたが余命半年といわれて、今の生活を変えて何か他のことをしようと考えるのであれば、現状に不満を抱えているということだ。
幸せに暮らしていない。
幸福は決して降ってくることはない。
自分が行動して環境を変えて手に入れるものだ。
余命宣告されて悔いがあると思うなら今すぐ自分の人生を見つめ直して自分の最大限の幸福を目指すべきである。
行動を起こそう。
余命宣告されてなくとも人生は有限だ。
これから死ぬまでクソで不満で苦痛な人生を送るのか、幸福な人生を送るのか。
それは今からの行動に掛かっている。
どうぞ皆様の幸せを願っております。